しんたに整体院院長 新谷博志

incho_03

「心と体の姿勢カウンセラー 兼 内股コンサルタント 」
新谷 博志
昭和48年4月11日生まれ

生い立ち

どんな人間が施術しているのかを来院前に知っていただければ

安心できるのではと思いつらつらと書き続け、書き過ぎてしまいました・・・。

新谷はこんな人間です。

 

まれも育ちも京都市。
小・中学校は東山区で過ごしました。
僕(“私“は堅苦しいので”僕“)は
母一人・子一人の家庭で、いわゆる「鍵っ子」でした。
鍵を落とさないように、 名札のピンから家の鍵をぶら下げていました。

親はアル中?だったと思うのですが 僕が8歳になったばかりのころ
僕の目の前で、意識を失って倒れ、後頭部を強打し
くも膜下出血で
1ヶ月後、亡くなりました・・・。

「不憫でかわいそうな子」

周囲の大人たちが変にやさしかったので、そんな目で見られているように感じ
自分が惨めになったのですが
それに負けないこと
母親に迷惑をかけないように学校を休まないこと

(実際、学校はその後一度も休みませんでした)

そして、風邪をひかないことを子供ながらに
決意したのを覚えています。

「お母さんのほうが辛いから、お母さんを守らないと!」みたいな・・・

 

同情されている時の周囲の目を必要以上に
気にするようになったこの頃から でしょうか

卑屈になったりもしました。

当時は片親の家庭は少なくその理由は離婚ではなく、ほぼ死別でした。
人として、子供社会での立ち振る舞いに悩み
世間では何が常識で、何が非常識か?
自分はどう見られているか?嫌われていないか?
A君が嫌われている、原因は?
自分も同じことをしているんじゃないか?
ものすごく、観察していました。
ものすごく、考えて、考えて
自分がわからなくなりそうで悩みました。

放課後は学童保育で、その後もいろんな友達と必ず遊んでいました。

・・・独りでいるのが怖かった・・・・・。

夕方、みんな帰っていくときも、必ず最後の最後まで残っていました。
自分が友達との輪の中で、精一杯遊んでいることで
自分の居場所を作り、存在を確認していたように思います。

家に帰ったら寂しいので、電気よりもまずTVをつけていました。

学に入ってからは、野球部で頑張っていました。
一応、プロ野球を目指していました。
メガネっ子で中2のときすでに今の身長とほぼ同じ174cmでした。
この時代の野球のポジションの決め方は
太い奴がキャッチャー、背の高い奴がファースト。
ということでファーストを守っていました。

この頃の仲間は常識というか、価値観が同じで
同じくらいの学力で、同じくらい野球ができて
いろんなことを共有できていた気がします。
当時の幼なじみとは、今でも草野球をしていて
昔と何も変わらない空間があります。
昭和のニオイという形容がいいかもしれません。
これは、一生、大切にします!
このメンバーの中にいられることは誇りです。
お互いが今までの生き方を認めているから
こうして集まっています。
仲間がいることにとても感謝しています。
間違いなく僕の生きがいのひとつ!

校は公立へ行きたい気持ちもあったのですが
自分に甘い性格の僕が大学へ行くためには
公立ではダメだとわかっていたので
当時、できたばかりの京都成章高校へ通うことに。

・・・正直、驚きました。

どこかの国に拉致されたのかと思うほど勉強地獄でした。
でも、お前の学力で大学へ行きたいなら
もっと勉強しろ!と言わんばかりで、軽く洗脳されていた気さえします。
この3年間は人との関わりが一番希薄で勉強以外何も思い出せないほどですが

意外にも勉強していたことで寂しさは紛れていたのかもしれません。
そのおかげで、僕でも大学へ進学できました。

人間、一生のうちに何度かこういう経験をしておかないと
いざというときに、踏ん張りがききません。
何かを始めるときも、「あのときの方がツラかったな」
と思えるようになります。
ちなみに、このときに漢字検定1級をとりました。
僕にとっての冬の時代でしたが
その後の大学生活という「桜の舞う春」を謳歌できたのは
間違いなく成章高校のおかげです。
高校時代にイギリスへ短期のステイができたことも貴重な体験でした。
ものの見方は1つではないと後に知りました。

そんな時代の恩師が現在、整体院のお客様としてご来院してくださっています。

当時、一番人間関係が希薄だと思っていたのに25年たった今、繋がっています。

これは本当に不思議なことですがとてもありがたいご縁です。

ちに待った大学生活、関西外国語大学へ。

抑圧された高校生活の反動で完全に 遊び尽くしました。
思考も行動も無駄な若さに支配されていて
今思えば、恥ずかしい限りです。
しかし、ここでもいい仲間に恵まれ、サークル生活を満喫しました。
よく「何のサークル?」と聞かれるのですが
明確な答えを返せたことがありません。
「酒を飲まずに酔っている人よりも楽しく騒ぐサークル?」といったところです。

1回生のとき先輩に言われた言葉。
「迷ったら、自分の尊敬している人はこの場面でどうするか?
その人になりきって、行動しろ!」
この言葉に大きな影響を受けました。

今でも時々、全国に散らばっているサークル仲間が
年代を問わず集まってきます。
先輩・同期・後輩・現役大学生の後輩まで・・・。
サークルがまだ存続していることにも感心します。

勉強面ではスペイン語を専攻していましたが 、ほぼ覚えていません(汗)。
これはすごく後悔しています。
ちゃんと勉強しておけばよかった・・・。

ブルがはじけた後、就職はとりあえず内定した
先物取引の営業でした。
この期間だけ、初めて京都を離れ、名古屋での寮生活。
名古屋はすべてが広く大きくて、物価も安くとてもいいところです。

営業に出てすぐに、大口の新規契約を取って、
新入社員60人の中で2位になったことも。
東京まで呼ばれて賞品で10万円以上もするオーダーメイドスーツをもらいました。
でも、契約したお客様が2人連続で損を出してしまわれたのです。
その方の運用の仕方が原因ではありますが
「自分が勧誘したせいで・・」と責任を感じました。
「大学まで行って、お客さんに損させて、何してるんや・・・」
と切なくなりました。
僕には向いてないなと思い1年経たずに退社しました。

23才の冬、退職し、京都のパチンコ店でフリーターをすることに。
またまたここでもいい人たちと出会い、いまだに交流があります。
2年半、景気が良くなるのを待ったのですが、一向にその兆しはありません。
26才のとき、仕事を探したのですが、
給料がいいのはパチンコ店だけでした。
ということで、別のパチンコ店で正社員として働きました。
入社当初はけっこう繁盛していたのですが、
上司に変な人が多くて、大変でした。
社長の目だけを気にして長時間労働していれば真面目に見えるといったところでしょう。
お客さんをほったらかしにしていました。

当たり前ですが、どんどんお客さんは、減っていき、どうにもならなくなります。
逆の意味でいろんなことを学びました。
学生時代なら絶対に友達にならないタイプの人が
上司だったので「こんな考えの人がいるのか」と驚きました。

30才だったと思います。当時、マネージャー職に就いた責任感もあり、
仕事が楽しくないなぁ、物足りないなぁと感じてはいたものの
生きる価値を見出せているつもりで
自分をごまかして毎日を過ごしていました。

物足りないと感じていた原因、 それは、社会にでてからの経験で、お客様に
「ありがとう」と
言ってもらったことが、ほぼなかったことです。
やらされている仕事に達成感を感じることもありませんでした。
32才。気づいたら、このパチンコ店で勤めはじめて
6年の歳月が過ぎ去っていました。
僕の未来は先の見通しが立たず濃い霧が立ち込めた状態でした。

6年というと、途方もない時間です。
膨大な時間という財産を無駄にし、かなり遠回りしたようにも思います。
でも、この時間と経験があったから、今の自分の思考にたどり着きました。

して決心しました。

自分で仕事をしよう!

いつまでも「仕事をやらされている」のは嫌だ!
生きがいを感じる仕事をしよう!

カンタンなことだったんです。
霧のない別の世界へ移住すればいいだけなんですよね!

サラリーマンをしていると転職は考えても
独立という発想は出てきません。
このときやっと気づきました。

B型の僕は決めたらすぐに動いてしまうタイプ。
シミュレーションは行動しながら、という感じです。
考えてから動こうとすると結局何もできません。
必ず熱が冷めて、ネガティブになります。
そういう人を何人も見てきましたから知っています。

この6年、社長と2人のおじさん社員には非常にお世話になりました。
いつか恩返しができたらいいなと思っています。

てさて。善は急げということで、サラリーマンをやめ、
独立することにしました。

お金持ちではないので先行投資の少ない仕事。

「ありがとう」と言ってもらえる仕事。

そして自分が興味を持っていて、やりがいを感じそうな仕事。
で、見つけたのが整体。
学校ではなく、開業している先生に教えてもらいました。
これが、大正解!
整体の勉強をするかたわら、
つなぎで、コンビニの深夜のアルバイトをすることに。
・・・その間たったの10ヶ月、あっという間でした。
目標を作って、そこに向かって毎日を過ごす充実感は
たまらなく、楽しいものです。
「6年」という長い冬が終わりを告げ、この10ヶ月は
“あたらしい生命が芽吹く季節”
春の始まりを告げるような期間でした。

このときに、願掛けの意味もこめて禁煙しました。
「今、タバコをやめる根性がないのなら、独立してやっていけるはずがない。
禁煙なんて簡単なことだ!」
と思って、最後の1本を万感の思いで消しました。

冬の夜空の元、ベランダでマルボロの火種を

「ジュッ」と灰皿に押し込んだ感触と音は今でも鮮明に脳裏に焼き付いています。

以後、1本も吸っていません。

要は自己暗示をかけられるかどうか。
「吸わない」という否定語ではなく
「やめる!」という強い肯定語の暗示を自分にかけるだけです。

普通は整体の勉強をするには整体の学校へ通い
2年ほど勉強してからインターンで経験をつんで
それでも軸がブレずに開業しようと思ったごく少数が
開業へたどり着くそうです。
開業率100%なんて書いている学校がありますが、
まず、嘘でしょう。
33才。ついに独立・開業しました!
開業してからというもの
出会ったことのないタイプの方にも関わることができ
たくさんの方に「ありがとう」といっていただけました。
「ありがとう」の報酬としていただくお金で自分が生活する。
仕事をする充実感はこれだ!と感じます。
昔から一人ぼっちが怖くて、
誰かに支えられて、誰かの役に立っていることに
自分が生きている意味を見出してきました。

「自分の存在する理由を知ることができ、
自分の価値を認めてもらえる場所」を
やっと見つけました。
それがしんたに整体院です。

疲れた顔で来院されたお客様が笑顔で帰路につかれます。
今、僕はやりたいことを仕事にして、とても充実しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

、ここまでは開業当初に記した記述ですが
ここからはその8年後、41才時点での追記です。

当時は「とても充実しています」と締めくくっているのですが
体重75kg、体脂肪率23%超。
見た目は整体師としては説得力に欠ける体型でした。

その2年後の35才の時、自らの体型にようやく危機感を抱き
「やせねば!」と一念発起。
2週間で5kgの減量に成功!
その後も減量しながら筋トレを続けました。

さらにロードバイクを購入してサイクリングを趣味にしたことで
本格的に体型も体質もいい方向へ変化し
41才時点で体重65kgを下回り、体脂肪率は10%を切りました。

しかし、39才の時、実は母親を亡くしました。
8才の時に父を亡くして以来、いつ母親が亡くなっても
それを受け止められるように構えていたんだと思います。
それが31年続いていました。
なので、慌てることなく後悔することもなく見送ることができました。

いま思うと母はずっと僕のために生きていてくれたんだと実感します。
39才の時に僕をこの世に産んでくれた母が
僕が39歳の時に亡くなりました。
母には感謝、ただただ感謝です!!

僕には兄弟も子供もいないので直接血のつながった人は
地球上にいなくなりました。
これってよく考えるととても心細いことです。
ですので皆様には是非子供をもうけていただきたいと強く想います。
そして、人のために生きる「人生」を送れば最期は
幸せを感じられるはずです。僕の母のように。

僕自身は関わりのある全ての人のために力になりたいと思っています。

そのほかにも、まだまだやりたいこともたくさんあるので
日々前を向いて生きていきます。

これから人生の長~~~~い夏を満喫します。

突然冬が来ることもあるでしょうが、それも人生。
経験上、僕は知っています。

冬は夏の“肥やし”。

冬があるから、夏が楽しいと実感できるのです。
冬があるから、この瞬間が夏なんだとわかるのです。

あなたは今、誰かのために生きていますか?

あなたは今、健康ですか?

心の姿勢はどうですか?

体の姿勢はどうですか?
そして、僕が力になれることはありますか?